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初グループ展を終えて

更新日:2021年9月12日


もう先週末の話になるがグループ展無事終了した。


しばらくまともに外出していないせいで本当に体力がない。

翌日は一日ほぼ座っていたのに筋肉痛が当日の緊張を思い出させた。


1日限りのカオスグループ展は無事に終了し、こんなご時世ながらいろんな方にお越しいただきました。

参加者の繋がりで他のアーティストさん方と知り合えたことは大きな刺激になったし

他のアーティスト目当てで来てくれた方こっちもいい!という感じで盛り上がったり。


個展とはまた違う学びが数多くあったので、まずまず成功と言っていいかもしれない。

もちろん至らないところは沢山あって、そっちの反省は主に主催陣と話し合ってもっと良いものにするには

みたいな有意義な時間を取れればすごく良いなと思っている。

すでに思ったことをTwitterにちらほら書いていたが、ちょっとだけ口悪く言えば本当に誰もキャプションなんて読んじゃいない。

そもそも今回の企画は「アート」だったのだ。「芸術」でもなく「ART」でもない「アート」だった。

多分これまで感じていたなんでかなっていう感覚は全部そうだったんじゃないだろうか。


何の違いを説明しているのか、わからないかもしれないが

カタカナのアートとそれ以外は大きな違いを持っている。これは日本特有なのではないかと私は思う。

違いがなんだかんだというのはどうか興味があれば調べてみて欲しい。結構納得ができる話がインターネットにちゃんと上がっているので。

決して今回の企画者及び来てくれた方々を否定したりレベル低いぜみたいな話ではないので悪しからず。

漠然とこの言葉の違いについて理解している気でいたところがあって、私はそれでもこの土俵に一石投じたろう!をまたやったのだ。

そしてようやっと理解した。何が違うって根本から違うということに。


気付けたのは、文字に起こすと攻撃的に見えないかすごく迷うが

アーティストだからといって文脈を語るとか、そういう概念のない人は普通にいるもんで、実際に直面して面食らった自分に驚いた。

もしかしたら皆うちに秘めたままか、自分の根本にある執着に気づいていないのかもしれない。

写真も絵画もイラストも、内側の気持ちを詩的に描くということで完結して、それ以上明瞭度を上げたくないという感じか。

粋の文化を改めて感じた野暮天であった。


 

新作の話



長い余談はこの辺として、改名後初の展示で卸した新作を公開した。

一つ一つに名はつけなかった(あるけどそこは本質ではなく見分けのための記号なので出さなかった)


後で撮るかな。と思って気づいたら終わっていたのでこの一枚で説明していく。

上段に3つ並ぶものが今回メインの作品。

「HOME」というシリーズ


【キャプション】

コロナ禍における長い自粛は家の中から外の世界を見る時間を余儀なくさせた。

家とは人の心のようなもので、景色は年齢や経験を元に姿を変えていく。

長らく同じ空間や同じ景色を眺めていても、知らぬ間にできた壁のシミや

ベランダから見える建物の変化など、新しい発見をすることがあるのではないだろうか。


本作品達はそれぞれの一部を剥き出しとすることで鑑賞者が作品に干渉する間を持たせている。

この間に向き合えば、輪郭が曖昧となった鑑賞者自身を映し出す。

曖昧な輪郭を確かめようと目を細め、或いは近づき、正しさを問う。

作品を通して自らのホームと向き合う時間を作り出すことを目的としたシリーズ。

—————

今回の作品は全てアルミ板をキャンバスとしている。

鏡など色々検討したが、物理的にもコンセプト的にもアルミのやや曖昧な写り具合がベストだった。

どこまで鑑賞者に意図が伝わったかはさておき、作品としては私の問いたいことをこれまでより鮮明に表せたのではないかと思う。


続いて「HOME」シリーズの下にやや無造作気味に並ぶのが「ストリート盆栽」というシリーズ

Twitter上では5月に試作をアップして以来、水面下でちまちませっせと作っていた。

キッド化して売りたいなとか、共犯的な作品にしたいななど、拡張性が高過ぎて今の私には扱いきれないところもある。

今回の展示では試作お披露目である程度空間を盛り上げるために出したが、思いのほかこちらの反応が良かったのは驚きだった。


【キャプション】

自己主張が苦手とされる我が国でも、街中によく見られるステッカーボムやグラフティ

特にステッカーというアイテムは我々の国民性と非常に合っているのではないだろうか。

私はこれらを言葉を必要としない自己主張と考えている。

この行為は街中、つまりストリートで行われることで成立する主張であり

幾多の人間が互いの見えないところで主張をぶつけ合う、実に日本的な戦いでもある。


行間を読むことを粋とする文化、時間をかけて地道に育て上げることを美徳とする文化は

壮大な時間をかけたバームツリーテストのようである。

流動的な景色と心理をストリートから一つの盆栽(バームツリーテスト)として

概念を持ち出すことで自己主張という性質のみを抽出させたシリーズ。

—————


このシリーズはキャプションに相当悩んだ。

先ほども書いたが、私が考えていた以上に色々な要素を含んでいて

何を言いたいかがすっ飛ばないように強風に立ち向かう気持ちであった。

多分これでも語り尽くせていないが、全部を語ることは野暮なのでということで、ここは行間を読み取っていただくとした。


モチーフといい、見た目といい、結構シュールな作品だと思っていたが

反応は皆「かっこいい」で、不思議な感じがしたが、非常に自己肯定感は上がった。

アルミ板にステッカーという、絵画から見たら明後日の方向だったので、コンセプトを見ずともこれは評価されるのかと。


そして展示を終えてすぐ、早速次に進んでいる。

今回明確になった「アート」という土俵。ここで私が生き残るにはこれまでと違う選択をする必要がある。

コンセプチュアルな作品はどれだけ敷居を下げた気になっても「アート」の場では刺さらないし見えない。

ならば、本質にコンセプチュアルを持ったまま、作品の物理的な性質のみを抽出して「アート」もやってやろうと考えている。

短く言えばそれは立体作品とか、スカルプチャーとかそういうものだ。

コンセプチュアルな入口に客は入らない。

もっと大衆的な、ポップアートな店の奥に「お客さんも物好きですね」と招き入れる空間を今後は設けて行けたらと思う。

煩悩崙毛、まだまだ爆速で成長過程です。



 

おわりに


今回の展示で、たまたま知り合うことができた海外でも活躍されているアーティストさんとお話が出来て

私はてっきりこれだけの人なら飯が食えているだろうと思って色々聞かせていただいたんですが

この世界で生きるにはまだまだ先が長そうでした。


これまで使ったお金なんか考えたくないですよね。って会話、私が思っている額なんか遥かに超えているのかもしれません。

でも、アーティストっていうのは作り続けないと死んでしまう生き物だと思ってるんで、予算とかこれまでのお金が〜とか考えてたらもう続けられないんですよきっと。

そりゃもちろん、展示するたびに経費とトントンならいいもんです。

現実、海外に呼ばれたって鳴かず飛ばずの時もある。というお話も聞かせていただきました。

使ったお金を数えるのは本当にやめようって思いました。

私はもう、この活動を趣味とは呼べないところまで踏み込んでいるんだなと改めて自覚しました。


今回共に展示をやらせていただいた方々と過ごした時間は確かに居心地が良く(お互いアーティストであるということが)

なんかこのくらい緩くやってるのも〜とか一瞬思いましたが、私にとって彼らは友であってもライバルなんです。

やったことに満足して自分自身の結果に目を向けないとあっという間に寒い身内ネタになってし


身内ネタが悪ではなく、本来の自分がどうありたかったかを見失うのは残念なことです。

居心地の良い空間は向上心を吸い上げて成長を止めていきます。でも器用な人、狡猾な人はその隙に抜かして行ってしまうのです。


「今日は楽しかったね」だけで終わる展示にならないように、個人だろうとグループだろうと結果に向き合う姿勢は変えずに参ろうと思います。



来年の夏までに個展をしたい。

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