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ひのきのぼうを手に入れた

GWとやらが終わりを迎える。

癖のようなもので、私は結構連休明け間際とかの夜にこうして何かをしたんだぞと争う行動を取る。完全に己向けの自己満足だが、この悪あがきをしないと怠惰に過ごして終わる気がして自分を許せないのでダラダラと拙文を綴るのだ。


今回の展示、本当に良かったなと何度も何度も余韻に浸る。反面、もっと出来ただろうと怒れる完璧主義が顔を出したりもする。展示そのものより、これをきっかけにした波紋が良いことを少しずつ持ってきてくれていて、多分何よりそれが嬉しいから「今回の展示は良かった」を言っているのだと思う。今はまだ確約も取れていないので公言できないが、確実に面白いことが動いているので少しばかり期待してもらえると嬉しい。


そういえば非常に今更ながら「アブストラクト解脱」についてのステートメントを書いた。


↓の画像がリンクになってます



何故今か、何故Webのみで公開したか。私的にはあちらこちらで発言していることで野暮に感じるのでここで明言しない。

このステートメントを書いていて、今書いて良かったなと強く思うし、このステートメントは今自分が求めている「正しさとは」を明確に述べられている。気がする。

私はステートメントは短ければ短い方が良いと思っているので、もっと短くできたら・・!という悔しさはあるが、今持てる言葉ではこれが限界だろう。アートの鑑賞者がどれだけ読み取れているのか気になるところだが、私は結構他人のステートメントがよくわからなくなる。どういうことかってその通りで、本当に何を言いたいのかわからない。と思うことが多い。

かつての私もキャプションに私小説のように物語を綴ったりしたが、詩的な文字列は本質とは無意味な方向への誘導にしかならなかった。教育者という経験がある以上、説明としたものに他人を寄せ付けない言葉はあまり使うべきではないと思ってしまうが、意味わからんけど圧倒的になんかすげえ!を素直に感じたら良いのかもしれない。少し前にやや炎上したインスタレーションの展示は説明し過ぎた結果軽薄に取られあちこちから叩かれる始末になった訳で。(恐らく)

やっぱりアートでも何でも正論や正解をズバッというのは野暮なんだろう。粋ってやつだ。


個人的に哲学が好きなのは最終的にどデカい謎(意味わからん!)を残してくれるからで、アートに求められることもこれなんだと思う。ファイン系とされる純粋芸術すらも、何故写真のように描かれただけの絵に強く惹かれるのか。とか、それぞれの哲学がそこにあるんだろうな。ないんだったら何を良いと思ってるのかちょっとよくわからない。私からすればどの手のアートも哲学への入場券であって、道具でしかないというのがやはりしっくりくる。


ネタバレを読んでからでないと映画やドラマ、漫画が見れないという人が増えているそうな。アートは謎を残すのが仕事だという私の認識からすると、バラすネタがあるならこっちが知りたいぜ。みたいな話なのでこれからのアートって本当に迷走するだろうなと思う。主に日本。私の中ではアート自体は終焉を観測しているので、終わりの先が楽しみなのだ。私が生きているうちに到達するかもわからないし、活動中に突然「終わりです」とシャッターが締められてしまうかもしれない。別にどちらでも良いが、アートという言葉の歴史と定義ではもう支えきれなくなったものたちの行き着く先が何と形容されるのか。これも私にとってこの活動の中で問い続けている正しさの一つかもしれない。


なかなか制作の手が進まない中、少しばかり見えている次のシリーズ作品、考えてみれば最初の展示で出したNOTHING HAPPENSシリーズに帰っていると今書いている最中で理解した。中身のない人間らしく、多彩に見せて芸のないことだ。アーティスト名についても結局はただ生きて死ぬだけの自分とは乖離させた役割を生み出すためのものであり、私が問う哲学に立ち向かうために役割の盾みたいなものがないと立ってられないのかもしれない。悲観的な思いを書いているのではなく、客観的に自分を眺めてああお前はそういうやつなのねという整理なので読み流してもらえれば。

いろいろ書いて整理していくと、今回の展示ステートメントと、新シリーズのコンセプトは限りなく私が今やりたい哲学の本質に近いということ。

つまり、そろそろ「正しさとは」というテーマも一歩先に行くのかもしれない。私はようやくひのきのぼう手にしたのだ。


なんとなく、次にこのブログを更新するまでに少しばかり時間が空きそうな気がしている。

一度半年近く更新しなかった時のように語りたいことの整理がついてきているのでそんな予感がしている。それとは別にアーティストという活動を続けていく上で強く衝撃を受けることが減ってきてしまったのかもしれない。全部を分かった気になるのは危険なことだ。病む精神と痛覚を持つ機械なんて非常に不便なので、適度なストレスを受けて思考するみたいな行動は生の人間として生きるうちは必要なのだと思う。

そういえば今日も都内某所で建物の壁にモデルを緊縛して飾るといったパフォーマンス?インスタレーション?が安全面やらで燃えている。これまでが無秩序で破天荒だったのか、今が定番の天丼を求める時代になったのか。スリルや狂気を奪われた先に残る表現は日本独自の新しい世界を開くだろうか。新解釈スーパーフラットの時代が来るとでも言って良いかもしれない。


何にでも慣れないと保てない程度の精神の分際で、すぐに慣れてしまうと暇になるのだから人間とは欲張りな生き物だ。

悩みの尽きない楽しい余生を過ごしたい。

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戯言

普段見ない展示を見て思うこと

【完】アブストラクト解脱 その後

昨日をもって4/1 ~ 4/6 の間開催されてたBON-NOUとしての最初の個展「アブストラクト解脱」が終わりました。 ご来場いただいた皆々様、ありがとうございました。

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