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砂漠のニルヴァーナ

夏が終わらないと思っているうちに冬が来た。

ブログもなんだか1ヶ月ほど更新しておらず、私が瞬きをしている間にきっと時間は飛んでしまったのだろう。


ここ最近。私の中から文字に起こしたいという感情がスーッと消えかかっている。

Twitterも眺めてはいるが頭の中で考えるに留まることが多い。考え事がなくなったわけではないのに。不思議なものだ。

煩悩は相変わらず無尽蔵に増え続けている。1つ知れば3つ増え、1つ進めば6つ道が分かれていく、私の視界に映るニルヴァーナは

砂漠のオアシスのように近いような遠いところで蜃気楼に揺れているようだ。


何も正解がないことが分かれば分かるほどに、虚無への憧れが育つ。

ここでいう虚無とは、意味を持たぬ純粋なもの。何もないけれど、何かであるという曖昧を許されたもの。

アーティストであろう。なろうとすればするほどに。


ここ最近はクラシックカートゥーンにお熱だ。

元々トムとジェリーを幼少期に散々見ていたからか、あの時代のシュルレアリスムや手を使った表現。ツボである。

そして次に陶。我が家には昔から陶器はそれなりに多い家だった。

そもそも祖母が陶器好きで、有名作家のものなどは無かったと思うが、冷蔵庫2つ分くらいの食器棚が家にあったくらい影響を受けていた。

朝食用の皿があって、寝ぼけ眼でその皿の模様を眺めていた記憶は未だ鮮明だ。自分の作品の成り立ちについて考えると

面白いくらい幼少期の経験や環境が影響を及ぼしている物である。


幼少期の自分の記憶を掬い出して、それを作品に昇華させ、私は過去の私が投げかけた正しさについてを鑑賞者に問う。

という感じだと思う。コンセプチュアルアートは対話型と言われるのも納得だ。

最近作っているobjetシリーズはどちらかといえばダダイズム的というか、何もない。をあるとした虚無を作ったとも感じる。

一方で最近描き上げたDOESというキャラクター達は対話を望んでいるのだ。私の中には2つの対極な気持ちがいると認識できるんだなあ。

DOESというのは、名無しの権兵衛を表すジョン・ドゥ、複数形の時に使われるジョン・ドウズから由来している。

ジョンでもジェーンでもないのは、男とか女とかの次元以前の、完全に不明確な「誰か」を表しているが、モチーフには日本ではお馴染みの

桃太郎を用いている。どれがどのロールであるかはなんとなく察していただくとして。そんな感じのコンセプト。



さて、いつもより分量は少ないものの、私的に丁寧に書いているので疲れてきた。

というより、文字に起こしたいことがあまりないのかも知れない。

かれこれ2年くらいズルズル続けてきたブログも、そろそろ潮時かも知れないなと近頃思うのだ。WEBサイト自体ももっと簡易化したいというか

無駄が多い気がして削ぎたさを感じる。考え過ぎる私は明日の私を信用できないので、どこかの時点の私の考えを残したくないという気持ちが

おそらくあるのだろう。

1ヶ月で絵柄がガラッと変わったり、写真撮ってたのが急に絵を描いたりするのだから、全くこいつは信用ならんのである。


近頃はマルチクリエイター、アーティスト。みたいなものが受け入れられつつある。

良い傾向だが、一心不乱に絵を描き続けるとかそういうのはもう飽きられたんだろうとも感じられる。


人生を楽しむということは、如何に無知であり続けるか。ということかも知れない。

何も悔いず、何も憎まず。何もかもを初見の目と脳で捉える。

ピカソが最終的に目指したのが子供のような絵だったという話もこれと通ずるものがあるんだろうか。


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