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【完】アブストラクト解脱 その後


昨日をもって4/1 ~ 4/6 の間開催されてたBON-NOUとしての最初の個展「アブストラクト解脱」が終わりました。

ご来場いただいた皆々様、ありがとうございました。


約3年間、名前や表現方法を変えながら時間をかけてここまでアップデートしてきました。

最初の1年、本当に何も分からず。誰かに上手く伝えることも出来ないまま時間が過ぎ、次の2年目でようやく現在に至る兆候が見えたころには出会いも別れもあり。3年目を迎えた今、私はアーティストかもしれないと思えるようになりました。



展示作品数は過去最多の40点ほど、お迎え頂いた点数も過去最高を記録しました。

今回印象的だったのは立体作品がとにかく好評で、ウケがどうこうは別として今後も作りたい作品だったので想像以上の反応に驚きました。平面作品では今回キャプションや展示コンセプトといった概要の全てを封印したことで少々難解にとられてしまったかな。という印象。

そしておまけ程度の部数用意していたステッカーは見本を除いて完売でした。思いのほか、記念にとかって頂く方が多かったのかもしれません。ありがたい。

直接来ていただいた人には結構話をしたんですが、自分で書くキャプションや展示のコンセプトなどがどうしてもポエティックに思えてしまい、第三者に私の事を語ってもらえるようになるまではやらないことにしようと思いました。

インスタグラムやこういった場で見る画面上の文字と、展示の空間に存在する文字では強度が随分変わると思っているので、どうしても語りたい時はこういった場所を使おうかな。など



■今回の展示のこと

展示の告知の時もいろいろ書いた気がするが、面倒くさいので振り返らずに書き殴る。

煩悩のテーマには「正しさとは」が存在するが、あらゆることへの正しさであり、問う対象を括らないものである。行きつく先が虚無、或いは無や空であることを前提として、ではそれでも感じられる良さは何か。(これを正しく表すならば何なのか)モノやコト、倫理観やアートというもの。様々なことに対して疑心暗鬼ではなく再解釈を探している。

疑心暗鬼ではなく。というのは悪い捉え方をしたくない。という意図であり、まあつまり全部正しいのか分からないのだから疑ってみようぜということ。さも正しそうに語られるあれやこれは本当に?っていうこと。


展示のテーマについては簡潔に述べるが、「チープとポップ、侘びと寂び。」である。チープとポップはまとめてキッチュともいえるが、ニュアンス的に前者を使いたかった。はっきりとチープで、それでいてポップがある。侘びと寂びは根本のテーマに近しい部分を感じ、今回に至った。侘しいや寂しいという言葉、普通に考えたら良い意味ではないのだけれど昔からこれを良しとする文化があったのが日本だ。アートは欧米に支配されているが、それでも私は日本人なのでこの文化というやつに寄り添いたかったという背景。

自分の幼少期に焦点を当てたときから、私は侘び寂びといえるものに良さや好きという気持ちがあり、言ってみれば暗い表現などが好きだったわけで、こういった展示コンセプトに至った。



もう少し掘り下げて作品の事を語る。今回平面でのメイン支持体はアルミと木、一部プラスチック。

反応としてある程度意図通りだったが、思っていたより面白かったのはアルミ支持体の作品だった。来場していただいた方がもし読んでいたら分かるかもしれないが、入場して左手からアルミに白黒のイラストのような作品が並んでいたとおもう。(ちなみに私の中では明記してないが左からが順路のつもり)この作品たちについて何か聞かれる時、必ず「どうやって描いてるんですか?」だった。

正直技法をよく知らない人に都合よく語るのは無償で技を教えるようで好きではないが、ちょっとぼかしつつ説明した。マネをしたとしても、多分仕上げの面倒さや支持体の繊細さ、手が切れたりする危険性に苦しむだろうから推奨はしない。で、聞かれた結果。大体感心してもらえるが、同時に絵そのものに触れた人はいなかった。誰一人。(この作品に対して)

技法的にも手仕事と機械の中間だが、その見栄えは極めて機械的かつ、薄っぺらいものになる。よっていわゆるイラストレーションであると認識されることで本質に焦点がいかないのだ。

展示会場の特性もあってか、周辺の方とみられる人々は逆に熱心に写真を撮ってくれていた。


絵の事に触れないという意味では平面作品のほとんどは触れられなかった気がする。

それは先ほども書いた通りキャプションや展示の事がどこにも無いので、正しい見方や解釈 に困ったのかもしれない。私の作る作品は特に、アートは自由に見るべきである。という意識の人には難解で押し付けられる印象を与えているかもしれない。どんな考え方で作られたという前提は当然あるが、答えがどうであるべきかを押し付けている訳ではないのでそういう意味では自由解釈していただければなので恐れずに感じたことを伝えてもらえた方が私としてはいうれしい。


正しい鑑賞方法というのは、この野菜は火を通した方が美味いとか。食えるけどこの調理(観点や知識)が出来たららもっと美味い(面白い)。を知ることであり、作家が望む解釈をせよというわけではないと思うのだ。

自由というのは暴力が許されている事ではない。一つ一つの社会や関係の中にある許容されている部分=自由であり、グロテスクな絵や性的ととられる絵を描いているからといってセクハラや暴言が許されることではないということだと私は解釈している。

受け入れがたいものを全く目にせず生きるのは難しい世界になってしまったが、よほど倫理観が特殊な人でなければ傷付けたい意図で制作する人間はいない。はず。まずは何が言いたいのかを聞くことから作品と鑑賞者の対話が始まると私は思う。

罪を犯したことが無いものだけが石を投げなさい。ではないが、アートという概念が揺らいでいるこの時代に、わざわざ明確にアートをやろうとする人には特に、ちゃんと勉強してもらいたいなと思ってしまう私がいる。定義に括られないで感性を大切にという気持ちを肯定したいので、こういう会話がリアルに起こる時は気を付けて言葉を選ぶが、人が作った概念である以上、歴史とルールがあることは理解しておくべきかなと。


そんなもの全部ぶっとばしてやるぜ。というアーティストが現れたら、それは間違いなくアートを次の歴史に持っていくだろう。


えらく脱線した。

決して怒りを感じている訳ではなく、これからのアートの事。というテーマを制作しながらずっと考えている。私なりに私自身の事だけでなく、この界隈は今後どうあるべきかを考えて取り組んでいるつもりなのである。私は正しさがなんであるかを考えながら、正しくあることに同時に囚われている。しかし、正しいことを知らなければ再解釈も出来ないので、永遠の修行僧なのだ。



■これからのこと

しばらくちゃんと文章を書いていなかったので、こんなに言いたいことがあったのかと少し驚いている。

これからどうしようか、あるようでないけれど、アートとそうではないが確かに"良い"と感じるもののどちらもやっていけたらいいなと思っている。


そうではないものというと、たとえばイラストレーション。

ただただかっこいいものを作りたい。として描いたものを純粋芸術といって良いのならばこれもアートの一環だが、今回絵というものにも私なりに向き合った結果としてどちらもやりたいなと感じたのだ。時間と場所、何より金が必要なので実現できるか分からないが、交互に展示をやれたら面白いなーと漠然と考えていたり。


なにはともあれやっとのこと、自分のやってることやりたいことを明文化できはじめ、それを形にできた展示だったことは満足。もっと展示がしたい。

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